光秀の定理(垣根涼介)を読了。
「この世は常に流転し、変化していくもの。今一時の夜は、永劫の過去より未来へと果てもなく流れていく宇宙の、時の営みの、ほん塵芥の一場面に過ぎませぬ。その意味において存在はしても、限りなく空、あるいは無。しかし前後の繋がりとして見れば 無限大の実・・・それらが表裏一体となって溶け合い、互いに共振し、今という時と世界は成立している」
明智光秀は不幸な人生だったのだろうか。
織田信長のパワハラに疲れ果て、精神を病み、あのような最後になったのだろうか。
その理由に関して、この小説では本能寺の変については直接的には語られず、本能寺の変の数年後に光秀の友達の二人が議論するという内容になっている。
圧倒的な権力を集積させていく信長の傍らで、光秀は一つの予感に囚われていた。
それは主君個人への不満ではない。
このままでは権力が一人に収斂しすぎて、誰も抗し得ぬ体制が成立するのではないかという危機感である。
それは主従関係の問題ではなく、存在の問題だった。
人間として人間に仕えるのではなく、永劫に自主性を奪われた使用人として固定されるのではないかという息苦しさ。
土岐明智氏と足利家の再興という志と大切な郎党・家臣への思い、その二つが、もはや退路なき決断へと光秀を押し出したのではないか。
これは小説なので、事実ではないけれど、光秀にもこの小説で書かれるような青春の、友達との家族との安らかな語らいのひと時があったのであればいいなと思う。
統計の話(モンティ・ホール問題)が出てくるけれど、それがこの小説の良いスパイスになっている。状況に合わせて選択を変えることが大事。
クリスマスも初詣も、お盆もハロウィンも、楽しめる日本に生まれて良かった。
いくつもの尺度や選択肢がないと安心できない日本人。
良く言えば、他人の信じるものを認める緩さ、気楽さをもつ日本人。
「人間、気楽なのが一番じゃ」
【気になったものメモ】
岸和田市本徳寺に明智光秀の肖像画が残っている
細川藤孝
細川ガラシャ(光秀と煕子の三女)
松永弾正久秀と三好三人衆が足利義輝(征夷大将軍)を殺害
足利家、足利義昭
西田幾多郎
仕事が出来る能力と、それを絶え間なく受け入れることの出来る度量は、また別の問題

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